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ちょっと拝見 岡のまち 立入のまち -西隆寺、立入城跡と東福寺ー

公開日:平成30年6月27日

 郷土守山に学ぶ研修講座Ⅱ 「ちょっと拝見 岡のまち 立入のまち」 ―西隆寺、立入城跡と東福寺―
                                   平成30年6月14日(木)午後1時30分から午後4時

コース:エルセンター→西隆寺→立入城跡→東福寺→エルセンター

 今回、郷土守山に学ぶ研修講座Ⅱでは東福寺の管理・運営をしていらっしゃる山崎 清さん(立入自治会長、吉身学区長)に取材をさせていただきました。

・東福寺の管理・運営で気がついたことや、苦労談などあればお聞かせください。
  
 東福寺を未来永劫存続させるためには2つの課題があると認識し、現在その打開策を検討しています。1つ目は、東福寺には住職がおられず、檀家もおられず、基本的には自治会管理のもとで運営管理しています。立入は宅地開発が進み、大半の自治会員は転居者によるものです。また昨今の若者世代(新住民)はお寺離れや宗教離れもあり、昔から大事に維持されてきた東福寺にまつわる伝統文化や行事を同じように守っていけるのか。2つ目は、東福寺の運営は自治会からの助成金と心ある方々からの志納金などで賄っておりますが、建造物の修理や境内の環境維持の資金面にも課題があります。

・立入の自治会長として実施されたことや特筆すべきことなどお聞かせください。
  
 まちづくり推進委員、副会長、会長、そして老人クラブの会長など、現在まで32年間何かの役をさせて頂いています。私は河西学区から昭和54年に立入に転居してきましたが、転居当時からたいへんよくしてもらい、さまざまな役を通して多くの方を知り、多くのことを教えてもらいました。そのことをたいへんうれしく思い、現在もまちづくりに努めています。前述のとおり、私が転居した後も多くの方が転居しており、この方たちに立入のことを、よく知ってもらうために、そして早く溶け込んでもらうために、20年前から自治会新聞を発行し、親睦行事としてバーベキュー大会(ここ数年は800人の参加者)や子供たちに楽しんでもらうための納涼祭などをしています。平成22年には27名の有志が3年がかりで立入の歴史や伝統文化を集大成した町民誌を発行しました。このように立入自治会は旧住民と新住民とのふれ合いを大切にした、たゆまざる取り組みが特筆と言えるでしょう。

・立入のまちで誇れるものをひとつ挙げると?

 やはり東福寺ですね。国の指定文化財と県指定文化財の木造薬師如来坐像が1体ずつと、その脇に日光、月光菩薩が各1体安置されており、遠くからも拝観に来られています。私たちの財産として保存していきたいものです。


もりやまの町の由来 (資料文化財保護課)
岡のまち
 岡は、標高100mを少し超える所にありますが、奈良時代以前に野洲川が立入、岡、吉身、金森、森川原を経て琵琶湖へ注いでいた関係で、現在も岡、立入は市内で最も高い位置にあります。日本(にほん)書紀(しょき)には、都賀山(つがやま)という名が記されていて、境川(さかいがわ)(旧野洲川)沿いの自然堤防がそれで、岡は都賀山の最上流部にあったという考えがあります。現在の西隆寺(せいりゅうじ)は、周辺部から見ると一段高いところにあります。そこを「岡」と呼んだので「岡」の名が付いたと考えるのが妥当だと思われ、西隆寺の山号(さんごう)も「岡(おか)塚山(つかさん)」といいます。日本書紀を編さんしたころ、ここが塚山(つかやま)(古墳のある山)として人々に認知されていたので、日本書紀にはきれいな文字を用いて「都賀山」と表記されたのではないでしょうか。西隆寺縁起(えんぎ)には「寺院の直ぐ西側に益須寺(やすでら)があった」と記されているので、岡に都賀山、吉身に益須寺と醴(こさけの)泉(いずみ)を想定する新しい説です。
 岡は江戸時代の初めには芦(あし)浦(うら)観音(かんのん)寺領(じりょう)でしたが、元禄(げんろく)13(1692)年に遠藤(えんどう)胤(たね)親(ちか)がこの地を欲してから三上藩(みかみはん)領となりました。西隆寺は天台宗で、立入(たていり)利(とし)国(くに)の信仰が厚く、再興されたものです。西隆寺には、市指定文化財の石造(せきぞう)阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)坐像(ざぞう)と絹本(けんぽん)着色山(ちゃくしょくやま)越阿弥陀図(ごえあみだず)
が保存されています。また自治会館の横に、市指定史跡の寺山古墳1号墳、東側に2号墳があり、古墳時代後期の竪穴(たてあな)住居跡が発見された岡遺跡があります。


もりやまの町の由来 (資料文化財保護課)
立入のまち
 立入は、今から約800年前、後白河(ごしらかわ)法皇(ほうおう)がこの地へ菊を見にこられたことが残されているので、菊の名所だったことは事実でしょう。藤原(ふじわら)俊(とし)成(しげ)が「うつろはで 立入の村の 白菊は さて幾(いく)秋(あき)の 露(つゆ)霜(しも)は経(へ)む」と詠(よ)んだ詩も残っていて「白菊の里」と呼ばれていました。文(ぶん)保(ぽう)元(1317)年の古地図(こちず)によると、立入は当時の京街道沿いにあって、ここから吉身、守山、金森を経る比叡山街道と分かれていて交通の要衝(ようしょう)でした。
 立入の氏神は、新川(にいかわ)神社(じんじゃ)で延喜(えんぎ)式(しき)神名帳(じんみょうちょう)に記載の古社です。その昔、火災で神社が全焼して宝物や古文書が焼失しましたが、狛犬(こまいぬ)一対が火傷(やけど)を負った状態で保存されています。
 東福寺(とうふくじ)は医(い)王山(おうざん)と呼び、岡の西隆寺に関係する古寺で、重要文化財の薬師(やくし)如来(にょらい)坐像(ざぞう)とその両側に県指定の如来形と菩薩(ぼさつ)形の仏像3躯(く)が安置されています。また、境内には堤防の河川側の地下深いところから発見された室町時代の石仏が保存されています。
 立入の名は、織田信長を天皇家や公家に手引きをした立入宗(たていりむね)継(つぐ)で有名です。宗継は勤王(きんのう)の志があつく、宮中で御倉(みくら)職(しき)という重職についていました。この立入氏の居城である立入城跡の土塁(どるい)(堤防のような高まり)が町内の竹やぶなどに一部残っています。
 新幹線沿いに立入(たていり)荒牧(あらまき)遺跡があるほか、大塚古墳など幾つかの古墳がありましたが、野洲川の堤防修理や開墾(かいこん)で消滅した記録が残っています。


受講生の声
・守山で歴史遺産の多さに驚いた。ボランティアガイドの説明もわかりやすくよかった。
・地域の歴史にふれてとてもよかった。
・「立入」のルーツが少しわかった。立入と自分の姓名の結びつきは不明であるが、今後の課題としたい。
・西隆寺で講話が聴けてよかった。
・城跡をコースに入れてほしい。西隆寺で立入一族の墓石が見られてよかった。
・初めて参加した。守山に住んでいて一度も行っていない所が多く、今回は岡、立入を訪問して参考になった。
・未公開社寺を拝観することができてよかった。今後も通常入れない場所(金森御坊)の見学、拝観の機会をいただけるとありがたい。
・歴史だけでなく守山の伝統工芸、職人の様子など見学の機会があるとよい。
・ボランティアガイドをしてくださった黒田さんの幅広い知識におどろいた。よく通る声で、時々入る冗談も楽しくよい引率者でありたかった。東福寺での仏像拝観はごくごく身近で説明に興味を持った。実物がそこにあっての説明だったのでもっと教えてほしかった。それにしてもよどみない説明、解説のご苦労に拍手だ。
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